真理は多数決で決定するわけではないので、真理が重要な場では、多数に媚びる必要は無いんだけどね。
感情が重要な場では、多数の感情を尊重してみよう、という話。
それぞれの重要性が優先される場の見極めと、感情表明のカウントもしくは票読み、それを行う意思、が揃えば可能かもしれませんね
公=大義名分として
これの定義について争うのは良くある話で。私利私欲にそれっぽい理屈をつけることによって大義名分であると言い張ってるに過ぎないという場合もある。
だから、こう、知覚する物、という訳でもないんだけど、「私が便利だから良いのです(QED)」みたいな主張が通るかと言えば、完全にNOな訳。
論理が最重要な場って、結構限定されていると思うよ。
職場、学術的な場、法廷、ディベート、ゲーム(の一部)……パッと思い浮かぶのって、こんなもんかな。
家庭では、多少論理を蔑ろにしてでも、感情や生理的な面を最優先にした方が上手くいく。この手の、勝負とは関係ない場もそうだね。
lamさんが理解できるよう説明してくれたのでそのように努めてみます
しかし、私が少数を可哀想に思って対立してしまうことはありそうです
自分に関しては可哀想と思わないよう心掛けましょう
僕の結論を言えば「ここを利用するユーザーの感情を害するので、ソーニャ夫妻の諍いを暴露するのはやめるべき。どうしてもというなら、ここではなく、ツイッターですべき」となる。